映画人魚の眠る家を見た感想 ネタバレ注意!

 人魚の眠る家は過去の作品ですがこれから見る人はネタバレ注意でお願いします!

 

 今回は人魚の眠る家という作品について書いていく。原作は東野圭吾さんがか書かれている作品で私はほとんどこの方の小説しか読んだことがないくらいに好きな方だ。(私は本がとても苦手である)

 本題だが今回の作品はとても生死や大切なものについて考えさせられる作品だった。少しあらすじを紹介すると、脳死と思われる状態になってしまった娘を延命処置を行い両親だけの思いだけで健康になっていくが目は覚めずに月日が流れ本当は亡くなっているかもしれないが娘の死を受け入れられない親とその家族や会社の部下などが巻き込まれていくという話である。

 脳死とは植物状態と違って回復が見込まれず世界の殆どの国では脳死=人の死とされいるが日本では臓器を提供する場合のみ人の死としているらしい。ただ脳死している人間は自分で呼吸ができないので機械が必要になってくる。つまり人の死を判断するのに本人の臓器の提供する意思を確認できない場合家族が決めないといけないのだ。これは生殺与奪の権を握ると同義。ましては親なんて自分の子の死なんて受け入れられるはずがない。皆さんはどのように考えるだろうか。

 この作品の魅力はたくさんあるが二つ紹介したい。

一つは母の強さだ。脳死状態と言われようが母の中では娘が生きており、どんなに娘が目をつむって言葉に反応しなくてもしゃべりかけお世話し続けることは常人にはできないことだと思った。

二つ目は父の経営するの会社の部下の自分の意思で体を動かせない人の為に頭からの電気信号に似ているものを活用し、自分の意思で体を動かせれるような研究している人が現れるのだが、その人に彼女がおり自分のプライベートの時間削り脳死状態とされる全く自分の意思すらない上司の娘に付き合わされ、その部下も娘に感情が芽生え彼女との時間が少なくなっていくというシーンである。プライベートの時間の大切さにとても気づかされた。

 皆さんにとって生死の定義とはなんだろうか。教えていただけるとありがたい。

 

一か月ぶりの投稿です。お待ちいただいてありがとうございます。このままペースを維持できるように頑張りますので次回もよろしくお願いしいます!

参考

脳死と植物状態について